ゴエティア
「情報は質量を持つ」とはじめて読んだのは、いつだっただろうか。最初は理解できなかったというか、何か読んだけどスルーしてたような感じだった。
なぜなら、この世の最小単位は「原子」だと思っていたからだ。実際、原子とはアトム「これ以上分割できないもの(the uncutting?)」という意味で、物質というより概念、なのだけれど、理科の授業とかでは原子というものを一応球体の絵で見せられ、色の違う原子が重なって分子になってH2Oだよ〜とか教わる。
原子核や、電子、陽子、反陽子、中性子、クオーク、あとまあ、超弦理論なんかでも、一応モデルがある。
なんでまあ、この世はまるでこういう粒の集合体のように想像してしまうというか、いやまあ、見方によってはもちろんそうなんですよ。超弦理論のモデルなんかは、もう正直三次元空間における表現の限界、という感じがする。
でもってまあ、そんなふうにもちろん中学校の理科の時間にこの世がすべて「原子」ってもんでできているんだよって教わること自体がコペルニクス的転回で目からうろこな話で、世界の見方が変わる情報です。
光が周波数の表現にすぎないとか、数学でアタリマエにでてくる全部3cm小数点以下0が無限に続くような幾何学的なものが、この世のどこを探してもない(プラトンによれば、ああいう数学で当たり前にでてくるみんなしってる三角形自体が、イデア界の産物または原子だからなあ)といったこと、全体として目からうろこな話なのですが、「情報は質量を持つ」というのも、同じくらいのコペルニクス的転回力を持っている気がするのです。
つまりそれは、いままで「この世は原子で構成されている」という思い込みから「この世の全ては情報である」というところへ至る、目からうろこが落ちる理解なのです。
つまり、質量とか物質性というものは何か?それはプログラミングみたいに考えると簡単で、「通る・通らない」みたいな「情報」でしかないんです。これは、うまく説明する言葉が見つからない。ちょうど、ブッダとかが、「私の考えを、言葉にするな。言葉にすると無意味なものになる」的なことを、世の賢人と呼ばれる人たち皆そうだけど、言っている、その言葉で伝えられない感じに似ている。
「存在する」「質量がある」ということは、「その場所を占めている」で、ということは場所に何かあるということは「その場所を、他のものが通れない」で、場所に何かがないということは「その場所が、他のものを通れる」。
この二つを決定する「情報」。それがこの世の最小単位で、「球体」がそこにあって他の「球体」が通れない。というよりも、そこを「通れる・通れない」の二択がそこに存在する「情報が存在する」。
まあ簡単に言えば、「情報が質量を持つ」というよりも「質量がある」「質量がない」その情報そのものが最小単位(アトム)というか、まあ質量なんて言わなくても「ある」「ない」の1と0こそが最小単位。そんな気がします。
空き時間の思いつきで書いているので、やっぱり説明して、人に伝えることを難しく感じます。
でも確かに、学校の授業で教えている時に、実際こういう話題になって「原子って何?」と学生さんたちと、話したりしたことがあって、高校や大学の学部の理科や理系分野では、もちろんこういう哲学的な理論の話までは踏み込まないので、「この世の最小単位=原子核、電子、陽子、反陽子、中性子、クオーク、超弦理論」みたいな感じという「図式」で教えられるので、うまくそれ以上の議論は腑に落ちないみたいです。
この世の、最小単位って何だろう?と自分で考えるというよりも、偉い人、努力した人、教科書が教えてくれる、的な受け身な感じで。
でも1回、大学の物理学専攻の学生で、多世界解釈にとても興味があって大学院で研究したい、と言っていた学生さんがいました。そういう人に、ある種の「天才」の感じを感じました。人の言うことを聞いて、既存の価値観の盲信を強化する「天才」ではないほんとうの「天才」のゲニウス。
でも、今の大学とかの物理学とかは「理論とか哲学的なことを考えるな、とにかく計算しろ。苦労を重ねないと価値がない。」らしいので(哲学科も全く同じだな〜)、本当の意味での天才を活用できない社会、うまくできるか心配です。
プラトンをはじめとする古代ギリシア哲学はもちろん、ゲーテ〜シュタイナーの自然論から、般若心経「空の思想」まで、これらの考えからアナロジックに連想されます。
自分が一番最初に、「情報は質量を持つ」の説明に触れたのは、たぶんシュタイナーの『ゲーテの世界観』だったと思う。シュタイナーがゲーテについて話した本はいくらでもあるし、似たような名前の著作がいっぱいあって、まぎらわしいですが、
「精神」が先か「物質」が先か。つまり、「物質」が先にあって、物質の組み合わせで「精神(≒脳内化学反応としての思考)」ができているのか、それとも「精神(≒時空間に制御されない量子力学的現象)」が先で、精神の組み合わせで「物質」ができているのか。
『ゲーテの世界観』49ページの、ゲーテのメタモルフォーゼ論に関する議論。まあ、ヘーゲルの世界観にも通じる話ですが、精神というミクロの世界の現象からはじまって、物質というマクロの世界までバタフライエフェクト的に広がって物質的・可視的現象がうまれるという「精神から物質へ」の世界観の一端です。
0コメント