manas sarvajñaya :

 文字にするのはもったいない。そんな風に思います。哲学的な本を読むのが好きだった。それはある意味仏教徒が「悟りたい」と思っていて、悟るための行をすることに向上心的快楽を得ているのと同じだった。


 その意味では、最近はどんな本を読んでも、味気なく感じてしまうものだった。新しい発見がなかった。本からは。本からそれが得られなくなって、代わりに体験から得られるようになった。体験から哲学を得る場合、頭では全く理解できない。パターンの分析、状況再現もうまくできない。ただ、私がそこに「在る」だけだから。


 ナゼか、五感でパターンを認知して、ナゼか、色々特別な感覚を感じて。そして「言葉」がつくられていきます。

 私たちは、人を前にして、いろいろ話します。でも、その要素ひとつひとつを定義することもできない。言葉は息を吸わないとでてこない。反射的に私たちは会話する。会話とは、本当に、自分のまわりに浮遊している、自分以外の存在の干渉する力が強いところだ。


 人は、言葉がおりてくる練習をしなければならない。問題を何度も解いて、テストで点が取れるようになる、それはいわば、シャーマンが「おりてくる」練習をしているのと一緒。問題を見た瞬間、解法や解が「おりてくる」練習を、勉強と呼ぶのかもしれない。


 ひとは皆、快楽と不快とで運命を決める。快楽を見いだせる行為と、見出せない行為、それがひとが何をやって、何をやらないかを決める。私の快楽は「おりてきた言葉を口にする」ことだと思った。どこからおりてきているのか、それは明白だが、言葉にして、名詞化すると誤解されるのなら、決してどこからおりてきているのか、言いはしないだろう。でも、おりてくるのだ。そして、それを語ることの、なんと楽しいことか。

 本当は、文章ではダメで、言葉でないと楽しくもなんともない。そして、私の降りてくる言葉を、語らせてくれる機会、語らせてくれる人、それが私を最も快楽を感じ、楽しさを感じることができる相手だと言える。


 ひとつ思ったことがある。ピュタゴラスを数学者と皆が呼ぶが、ある意味ではそれは侮辱である。現代の数学者の意味で呼ぶのなら、どうしても間違った人物像になってしまうからだ。彼は現代の数学者が数学と考えるよりものよりもより広い場所を数学と考え、そのために数がアルケーだと思えたのだ。

 正直、自分もこの世のアルケーは数だと思うふしがある。しかしこの世のアルケーは「数学」ではないのだ。ロジーもノミーもなくなって、アリトモスだけが残る。そしてアリトモスは、この世の全てに通じている。数とは、量子もつれのことである。1という数字の表現が、ありとあらゆる他の要素を引き連れる。


 マセマティックスという言葉が、なぜか数学を意味している。アリスモロジー、アリスモノミー、とでも呼ぶべきなのだろうか。マセマティックスは、マテーマタに通じ、マテーマタは、サンスクリットでいう、√manの意味に通じる。そこまで行ってしまうと、まさにもう海(mar)以外の何ものでもない。マンティケー、マナス、マニア、マトリックス。人間の心(manas)は数だろうか。きっとこの世の本質は数なのだろう。しかし決して、数学ではない。数に限界とルールを用いたとき、数学がうまれる。


ᚠᛚᚪᚵᛋ ᚠᛚᚪᛪ ᚠᛟᛞᛞᛖᚱ ᚠᚱᛁᚵ

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