Wenn der Wind singt
別に暇ではなく、やるべきことは常にある。が、暇…と思う時がある。仕事がないとき、年末年始…これは暇、という感情だろうか。ちょっと違うかもしれない。
やることがないわけではないけど、やる気が起きない、そういう時って、暇って表現するんだろうか。かといって、何か気晴らしをしようと思っても、なんか、一部の話が通じる好きな人と会う以外、何やってても楽しくなくて。
新しいゲームを買ったり、新しい本を買ったり、サブスクの映画を見たりとか、色々、でもなんか、そういうのは、全然楽しい感じがしない。
年末年始は特に、何もないのが厳しい。年末年始のイベントを思うだけで重圧、強い鬱、だから、何かそれを忘れられるものが欲しい。でもなんかそこまで楽しいことがない。世の中自体が休日だから、外に行く気もおきない。知り合いも、どうせあんまり話もできない。
家でできる仕事は結構あって、むしろ山積みなのに、その年末年始のイベントの重圧のせいで手につかない。かといって、快楽の強い気晴らしもない…。そんな循環。もっと面白いコンテンツを集めたい…というより、そういう人たちと、世の中の取り決めみたいな暦に関係なく、常に繋がっていたい。
暦は農業の効率化のために生まれた。そして祝日は人々の動きを統制するために生まれた。「祝日はこうするものだ」と言っておけば、人々はそういう動きをする。ものを売る上で有利だし、生き方もコントロールできる。特定の宗教や政治の場をそれを使って人を集めることもできる。そこで「これは善、これは悪」を教えて、さらにコントロールできる。そういった原理を上から見れる人たちを集めたいし、そういう世界に対しダス・マン的でない人たちと常に繋がっていたい。とにかく、ダス・マン的でない人たちと繋がっていたい。
暇という言葉では上記リンクのようなパスカルの著作の話を連想する。人間は、「暇」と感じるからこそ、現状維持の安定感を破壊し、進化のように人生を進むことになる。退屈が、いわば「新しいもの」を得る原動力なのだ。仮にそれが、安定した現状の破壊であっても…。
新しい環境が常に与えられていれば、満足する。そんなプログラムを仕込まれているんだろう。そういう遺伝子しか生き残れなかったのか、はじめからそうプログラムされているだけなのか…。私の実存は神経内の化学物質でしかない。死ぬその瞬間まで、快楽物質の反応さえ繰り返していればいい。その上で、「何度も同じ快楽を得ていると、それを感じなくなる」という前述の遺伝子進化論的な戦略である「暇」のシステムを、うまく騙して、ずっと快楽を得続けられれば良い。人生で獲得できるお金の範囲で。
最終的に、それはどこへ行くのだろう?たとえば、寄生虫や遺伝子はなんらかの戦略を持っていることが多い。それは「そう見える」だけなのだろうか?自らの種の生存に有利な戦略を持っていることが多いが、「種」とはどこからどこまでやら?生物だって「死」やこの「退屈」の発明により、いまこういう状態のエントロピーを持っているのだし。でもこんなに退屈なら、エントロピーを無理してあげていかなくても…と思ってしまうけど、利己的遺伝子みたいなものは、ただのカリ・ユガなのか、それともカマキリの死体に寄生してゾンビのように死体を動かすハリガネムシのようなものなのか…、それとももっと合理的な目的があるのか。
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