Cytokine Sturm & Drang
昔、「社会に対する憤りがない者はアルツハイマーになりやすい」とシュタイナーのなんかの著作で読んだ。それからなんとなく社会の矛盾を感じるたびに一応自分のアルツハイマー対策になってるんだろうかとか勝手に思うようになった。
ただ実際に、テレビやメディアの権力を盲信し追従しているのは、アルツハイマーの第一歩に他らならない。そしてそのことが、こんなにもはっきりとわかる時代になった。
その意味で…まさかこんな話を自分がするとは思っていなかったが、この間流れで、話していた人から「もしもお金に余裕があって、子供ができたら、どういう教育を受けさせたいか?」と聞かれた。「普通の義務教育や高校教育は関わらせたくない。インターナショナルスクールやシュタイナー系みたいな自由で創造的な場所があればいいけどなければ、本人が凄く希望しない限り学校はいかずに、もし行っても危ないと思ったらすぐにやめて、外部のフリースクール的なところとかで色々体験させたりする。科目や受験用の勉強は普通に自分が教えられるし。」と答えた。会話のシンクロニシティが多い自分は、もともと最近、別のところでもそんな話を何度かしたので、少しそれについて考えるきっかけもあった。
ただそもそも、自分は性格的に精神的な生きにくさがあるので、子供をつくったらそれが伝播し、同じ体験をする確率があるので、つくらない方が良いとずっと思っていた。そもそも車も乗れないし。まあそんな人間であるのにそんな話をしている現状。とはいえ自分が子供がどうとかは別にどうでもよくて、どちらかといえば思うのは、この「子供に学校の教育を受けさせたくない」という気持ちは、最初の「社会に対する憤り」に他ならないということだろうか。
今までの仕事先の中心の多くが学校とか塾だったものだから、偏差値というカルト宗教と創造的思考を破壊し機械的思考を植え付ける世界には行って欲しくないという気持ちがある。そういう教育が必要な人もいるかもしれないが、そうでない人にまでその教育を施している。唯一知り得たこととしては、基本的には皆が教育をよくしたいと願っているけれど、現場はよくなろうとしてもよくなれないということだ。
普通の公的な教育は、昔も今も正直あまりクオリティが変わっていないと感じる。世代交代が進んで、前の世代の真似をする教員もいくらか常にいるだろうけど、基本的に教員の潜在的な質は上がっていると思う。ただ「潜在的」なので、良い教員が良い教員としていられない学校が多い。
つまりカリキュラムの質が下がっている。はじめから時代に乗り遅れすぎていて、学生が役に立つ本当に学ぶべきことを学ぶ時間を「悪」だとみなし圧迫してまで将来役に立たないことを「善」として学んでいる。
それは学生へのカリキュラムでもあるが、教員へのカリキュラムでもある。教員がカリキュラムに忙殺されて、時代の流れに対応した本当に学ぶべきことを学べず、ということは学生に本当に学ぶべきことを伝えることもできない。教員に押し付けられる教育が悪い結果、学校教育が悪い。教員の権限がだいぶ厳しくなったことは、教育にとって良い意味にもなるし悪い意味にもなる。でもどちらかといえば、悪い意味のほうが強いかもしれない。
つまり解決方法は「学校がよくなる」ではなく「学校の外で学ぶ」ことしかないと思う。昔と今で全然違うのは、選択肢と選択肢を得る縁の多さだ。学校が悪いなら学校に行かないという選択肢もあって、なりたいものによってはそのほうがずっと良い。唯一必要なのは、生涯通して学校に行かないこと、行かなかったことは悪という劣等感の洗脳を打ち破ること。
この悪い制度自体は、それも人生の目的として必要な人がいるかもしれないので、存在していてもいい。善が悪を倒すでは過去の歴史上の宗教と変わらないので、善も悪もあっていいけど都合悪い方と関わらないでいられるということが一番良いと言える。
どちらの世界を知りえるかは、どうしても周囲の環境という縁と、自身の思想としかいいようがない。何かそういうもののために善悪が存在しているように思える時もある。
何百回も聞いた曲のジャケ。ずっと気づかなかったけど、いいことが書いてあった。iphoneのサムネだとわからない大きさ。でも、あまり広まりすぎてもよくないのかもしれない。何事につけ、幸せにはそんな存在感が大事なのかも。
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